夏の思い出シリーズ♪を掲載強化中な今日この頃なのです。
最近の撮影も早く載せていきたいなぁとは思うのですが、お蔵入りさせるにはちょっともったいないんで、もう少しお付き合いください。(昔の撮影を見返すと、なかなかお目にかかれない、面白い写真もあったりするもんで、整理するはずがじっくり見ちゃって・・・全然現像作業が進まない。それもそのうち、お出ししますね(笑))
さて、今年は諸事情ありまして、お盆休みを実家のさいたま市で比較的長くとりました。それでですね。せっかくなんで、観光でもしようかい…ってなことを考えまして、8月15日、父と二人で川越の街へカメラ片手に散策に行ってきました。
どこから見ようかと父に相談すると、川越といえば、喜多院は外せないだろうということで、まずは直行です。(父と一緒に行動すると、いろいろ教えてもらえるので面白い。いい年になったら、父と遊ぶのは良いのかもしれないですね。)
星野山喜多院といえば、徳川家ゆかりの天台宗寺院です。ご本尊は阿弥陀如来。
起源は奈良時代にもさかのぼる。淳和天皇の勅願により、慈覚大師円仁(別名元三大師)が天長7年(830)に創建したといわれています。関東でも屈指の古刹である慈覚大師は調布の深大寺などの創建に関わっており、関東の天台宗寺院の礎を築いた人だ。「川越大師」と呼ばれる所以はこの人にある。
戦火で焼失したり紆余曲折あるのですが、慶長4年(1599)星野山喜多院にとって重要な人物が現れます。
天海僧正(慈眼大師)その人です。
第27世の法灯を継ぐ、天海僧正は慶長16年(1611)11月に、川越を訪れた徳川家康公と接見、そして天海の意見により寺領4万8000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利の工事によって仏蔵院北院を喜多院と改めました。
さて、境内を見ていきましょう・・・。
伝統を感じる山門をくぐると、広大な敷地が広がっていました。新緑が爽やかな、川越大師・喜多院の境内。徳川家の力の大きさを感じます。
山門をくぐって、右手には木遺塚があった。
歩みを進めると、眼前に重厚な存在感の本堂が、その姿を現す。
浴衣や作務衣を着て、川越見物をしている若者たちの姿も多くみられました。せっかくの蔵造りの街を楽しむなら、純和風のいでたちで見て回るのも楽しいでしょうね。
まずは、参拝の前にお清めを済まさねばならないでしょう。
このお清めのお水を取るための龍の彫り物が見事。二尾の龍が絡み合いながら天上を目指すがごとくの勢いだ。しかも、この二尾の表情はそれぞれ異なっています。憤怒の表情の龍。哀みの表情にも見える龍。不勉強ゆえに詳細は分からないのがなんとも・・・。もしかしたら二尾は兄弟龍なのかもしれない。
本堂へ進もう!
御賓前で線香の煙を体に浴び、邪気を払う。
寺院には撮影禁止の国宝もあるのだから、節操無く撮影するわけにはいかないが、父に撮影のアドバイスをしながら、見学をする。普段の僕は、室内での撮影は『プラス補正』を使って、積極的に増感させている。そうすると、このように明るく撮影できる。自分が判断する適正な感度を使いたい。
この像はお賓頭蘆尊者。お釈迦様のお弟子で、十六羅漢に数えられています。羅漢は仏になろうと修業を積んでいる最中の者です。自分の体の悪いところを触って、お参りをすると平癒するといわれています。僕は頭かな・・・。
ご本尊はさすがに撮影禁止の札が掲げられておりましたので、お参りをして本堂の外へ出ます。
苦ぬき地蔵
本堂を出て左手に進むと、立派なお地蔵様=苦ぬき地蔵尊が祀られていました。祀りの旗がたくさん立っていました。 なんとも言えない、いいお顔をされている。苦しみから解放してくれるありがたいお地蔵さんです。
さらに七福神を祀るお堂もありました。
このお堂には、『大黒天』が祀られていました。実は大黒天はヒンドゥー教のシヴァ神の化身と言われており、大国主命と同一視されることもあります。
ところで、皆さん、仏教における神様の位はご存知でしょうか。
仏教では、如来が最高位でして、悟りを開いた究極の境地です。それに続くものが、菩薩(悟りを求めるものという意)です。如来を目指して修業の身ではありますが、仏法のご加護を人に与えてくれます。そして、明王(如来の使者)が続きます。明王のほとんどが憤怒の表情をしています。そして、最後に天部となります。この天部は上位の3神とは違って、仏法を守護することが主な役割とされています。
大黒天は、天部の中では力の強い神様です。さまざまな御利益があるといわれていますが、七福神の中では、財宝をもたらす神様とされています。その力が強力であるがゆえに、欲望に溺れてしまうものもあります。そうなったときに、大黒天のもう一つの顔=破壊神シヴァの力で欲望の波を切り捨てるとされています。
我々はすぐに煩悩にとらわれてしまう。何事も過ぎたるは及ばざるがごとし、すべての物事に感謝して生きていきたいものですね。
さて、まだまだ、喜多院の紹介は続きます。
見事な多宝塔がありました。
方形と円形の組み合わせが見事な建立です。この多宝塔は、本瓦葺の三間多宝塔で、下層は方形、上層は円形でその上に宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根を置き、屋根の上に相輪(そうりん)をのせていました。ちなみに、埼玉県指定・建造物です。
この多宝塔は多宝如来の塔でもあると言われています。釈迦如来(左)と多宝如来(右)が並んで祀られております。
釈迦如来が法華経を説法していると、大地から巨大な多宝塔が現れ、塔内にいた多宝如来が半座を開け、釈迦如来に座を譲り並んで座ったという説話があります。
釈迦如来は、悟りの境地、深い瞑想に入っている証である『禅定印』を組み、多宝如来は合掌していました。
さてさて、本当はここからが特にすごかったのです。
けれど、公開できない(撮影できない)ものばかりなのです。
なにせ、徳川家光公生誕の間、 春日の局化粧の間などがあるのですから!!
(そりゃ、撮影できないでしょ。)
建物の中はほとんど撮影できませんので、外の様子をご覧にいれます。
この大木は、天海僧正お手植えのご神木『槇』です。胸高直径351cm。
「日本書紀」には、スサノオノミコトが抜き散らした髭が杉、胸毛が檜になり、尻毛が槇になったと記述されています。天海槇と言われるこのコウヤマキ。天海が植えたとすれば、樹齢は約350年の巨樹ですね。
この庭園は、遠州流東好み枯山水水書院平園『曲水の庭』です。
石組は、真(激の瀬)、行(出水)、草(せせらぎ)、植栽は、真、副、控、受、留の基本になぞらえ、飛び石は大中小の遠近法が使われています。
中心の赤松を眺めながら廊下を渡ると、遠方の景色が移動します。
家光公生誕の間、春日の局化粧の間のきらびやかさ、そして所蔵している資料も大変見事なものでしたが、お庭の造形も見事でした。
最後は五百羅漢を見ました。これもすごかったです。
喜多院の五百羅漢は、日本三大羅漢の一つに数えられます。この五百余りの羅漢さまは、川越北田島の志誠(しじょう)の発願により、天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたり建立されたものです。
笑うのあり、泣いたのあり、怒ったのあり、ヒソヒソ話をするものあり、本当にさまざまな表情をした羅漢様がおられます。そして、いろいろな仏具、日用品を持っていたり、動物を従えていたりと、観察しだしたらいつまで見ていても飽きないくらい、変化に富んでいます。
また、深夜にこっそりと羅漢さまの頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているのだという言い伝えも残っています。いやぁ、深夜にここ来れるかなぁ。
十大弟子、十六羅漢を含め、533体のほか、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普腎の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全部で538体が鎮座していました。
自分が気に入った羅漢様を撮影してみました。この中にも皆さんのお気に入り見つかりますか?
さてさて、僕の撮影ばかり紹介しましたが、この通り・・・父も撮影に夢中でした。いい写真撮れたかな?
以上、川越散策その1は川越大師・喜多院をご紹介しました。次回は川越の街散策編の予定です。
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座っている御自動さんの手に、まつぼっくりを置いたのは、とくさん ですか?
いいですねぇ(笑)