4月、富岡町を訪れてみました。

4月某日、国道6号線を富岡町に向けて走った。
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福島第一原子力発電所から20キロ圏内の全域が、立ち入りが禁止されている「警戒区域」に指定されていたが、警戒区域が解除されるのは、福島県の川内村と田村市、南相馬市の3つの自治体で、それぞれ放射線量に応じて「避難指示解除準備区域」と「居住制限区域」、「帰還困難区域」の新たな3つの区分に指定された。
 
追加の放射線量が年間20ミリシーベルト以下となることが確実な「避難指示解除準備区域」については、住民の一時帰宅や事業の再開準備などが認められ、除染を行い、インフラが復旧した後、住民のできるだけ早い帰還を目指すとされている。
 
それにともない、富岡町も一部の区域が立ち入り可能となった。
 
富岡町といえば、夜ノ森の桜並木が桜トンネルと称されるほど見事で、多くの福島県民に愛されていた。私自身も毎年撮影行を行っている場所で、思い出深い場所だった。今年、警戒区域が再編されたことで、どうしても現地に行き、この目で現状を確かめてみたい思いに駆られていた。
 
私が訪れたのは帰還困難区域の外側であったが、想像はしていたものの、切実な現実があった。やはりというか、昼間にも関わらず、街にも人通りはない。行き来する自動車も取材の自動車か除染業者等のものが大半であると思われた。
 
町中の様子も、多少の瓦礫は片づけられているのだろうが、多くの建物は被災した当時のままにされているようだった。明治元年に創業した鰻の名店なども廃業を余儀なくされている。
 
私が強く感じたのは、原発事故がもたらしたのは何だったかということだ。それはまさに営みの破壊ではないだろうか。ここには人々の営みがあった。人々の暮らし、そして、桜の季節ともなれば、多くの桜見物の観光客で町がにぎわった。それがどうだろう。昼間だというのに、人どおりのない町に変わった。人の営みが丸ごと奪われたのだ。
そして、帰還困難区域には、今なお立ち入りが許されていない。そんなことが震災から2年たってもなお続いているのだ。こんなことが許されていいものか。正直、怒りにも似た感情を禁じ得ない。


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6号線を北上する・・・。富岡町にたどり着いた。左手に見えるのは「うなぎの押田」。明治元年に創業した鰻の名店だった。いわき市平にも店舗を構えていたが、本店が壊滅的な被害を受けたことは大きな打撃だったのだろう。廃業を余儀なくされてしまった。
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町中に人通りはあまり見られない。ときおり自動車とすれ違うが、除染事業の作業者の方たちだった。
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多くの小学生が学んだ富岡第一小学校。ひっそりとたたずんでいる。
富岡駅へ移動してみる
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富岡駅にも津波が押し寄せた、大量の水と泥が運ばれ、家屋や店舗が破壊され、自動車も流された。その名残が各所にみられる。(駅周辺の店舗も破壊されていましたが、個人の所有物であるため掲載はひかえます。)
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地震と津波のエネルギーのすさまじさが物語っていた。
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駅構内の軌道上に津波で流されてきた自動車がそのままに置かれている。普通であれば、軌道に草が生い茂るはずはない。津波で運ばれてきた土砂が軌道に覆いかぶさったため、草が伸びてしまっていた。
駅から海岸へ向けて走ってみる。
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ここには農地が広がっていたという。今なお、津波で流された自動車や船、家屋が残っていた。
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富岡漁港・・・津波でぶち抜かれてしまった。
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