被災地支援ふくしまを元気にしよう!!
すべての人の心に花を・・・ハイサイ福島!!
2011年6月27日(土)、いわき市立小名浜第一中学校で、福島・沖縄ゆいまーる祭りが開催された。
沖縄といわき市には歴史的な大きな縁があった。沖縄を代表する伝統芸能のエイサーの成り立ちは、福島県いわき市出身の袋中(たいちゅう)上人が 琉球に訪れ、念仏を伝えたことが起因となっている。袋中上人は徳が高く、時の王・尚寧王や三大偉人の儀間真常も帰依をしていました。
その恩返しをすることに何か霊的な意味があるのではないだろうか…と喜納昌吉さんはじめその仲間達が感じたといいます。
ゆいまーるとは沖縄の方言で、「ゐーまーる」ともいう。ゆい(結い、協働)+まーる(順番)・・・つまり、順番に労力交換を行なうこと、相互補助『たすけあいの心』だ。おもに農家の畑仕事についていうが、転じて他の仕事についてもいうようになった。
このイベントの開催に当たっては多くの方のご尽力がありました。重ねてお礼申し上げます。
実行委員会委員長より挨拶がありました。委員長は、いわき市小名浜で沖縄料理専門店『宮古島』を営業されています。
沖縄エイサー(いわき美らてぃーだ)
袋中上人が1603年から3年間首里に滞在して浄土宗を布教したのを契機に、沖縄では王家や貴族の間を中心として念仏が広まった。18世紀中頃には、托鉢や芸事を行なう「念仏にゃー」(にんぶちゃー)をお盆に招いて、先祖の供養を行なう風習が、首里の屋敷町などで存在していたという。当時は現代のエイサーと形式が異なり、門付歌と念仏歌だけで踊っていた。
明治以降になると、念仏の詠唱を村の若人が代行する形で庶民の間にエイサーが普及していった。沖縄本島中北部から県内全域へ伝播して大衆化する中で、民謡などを取り込む例も増えた。与那国島で始まったのは80年ほど前と言われている。なお、戦前は太鼓を使う例は少なく、浴衣などの普段着姿で手ぬぐいを頭に巻くというスタイルが主流であった。念仏にゃーの存在は大正の終わりごろにはほぼ消滅している。
エイサーの由来は、浄土宗系の念仏歌に挟まれる囃子の一つ「エイサー、エイサー、ヒヤルガエイサー」から来ているとされる。また、「おもろさうし」に「ゑさおもろ」(「おもろ」は歌謡の意)の語があり、これを由来とする説がある。
では、ちょっと写真の枚数が多いけど、がんばってみてください。
太鼓エイサーの主体は太鼓と踊り。地謡の演奏に合わせて太鼓を叩いていく際に、特に締太鼓とバーランクーは身体をひねる、しゃがむ、飛ぶ、回転するといったアクションを見せる。
数十人の太鼓踊りの統一感、一斉の躍動といった勇壮さが、エイサーの大きな魅力の一つとなっている。手踊りは後方にあるのが一般的。 一方、手踊りエイサーは琉球舞踊を基礎とした優美でたおやかな動きを特徴とする。三線が伴奏する場合は歌に合わせて踊りの輪が回転の向きを変え、全体的にややテンポが速い。太鼓伴奏の場合は、ゆるいテンポと速いテンポの曲を交互に歌い、踊る。
じゃんがら念仏踊り(平泉崎青年会)
じゃんがら念仏踊り(じゃんがらねんぶつおどり)は、福島県いわき市に伝わる郷土芸能で、鉦、太鼓を打ち鳴らしながら新盆を迎えた家などを供養して回る踊念仏の一種である。市内では単に「じゃんがら」と呼ばれ親しまれている。主に毎年8月13日から15日までの3日間行われ、いわきの夏の風物詩として知られる。いわき市の無形民俗文化財に指定されている。
じゃんがら念仏踊りの起源には諸説あるが、鍋田三善が天保年間に記した「晶山随筆」では袋中上人に起源があるとされている。市内の集落ごとに、その地区独特の形態で伝承されており、必ずしも一様とは言えないが、概ね以下のような特徴を有する。
- 踊り手
地区毎の青年会・保存会等の主に若者十人〜十五人程により構成される。近年女性の踊り手も見られるようになった。集団の内一人は弓張提灯を手にして踊る提灯持ち(会長、使者などとも呼ばれる)であり、太鼓が三人、鉦が七人〜十人程からなる。また、市内遠野地区、北茨城市大津町などでは笛も加わる。
衣装
浴衣に白襷、手甲、白足袋、鉢巻。提灯持ちは浴衣に黒紋付。太鼓には紺地に白抜きで「南無阿彌陀佛」と染め抜かれた布(太鼓着物と呼ばれる)が巻かれる。
踊り
提灯持ちを先頭に一列になり、鉦と太鼓を繰り返し叩きながら新盆の家の庭先などに現れる。(流し・道中囃子) 盆棚に一礼後、太鼓を叩く者が三人一列に並び、その周りを鉦を叩く者(鉦きり)と提灯持ちが楕円状に取り囲み、輪をなして踊る。
まず太鼓に合わせ唄いながら合掌の所作を伴う手踊りをし(念仏)、 唄い終わると掛け声とともに鉦・太鼓を叩きながら踊る。(ぶっつけ) 太鼓は腰を沈め片手でリズムを刻みつつバチを持った手を舞わせながら叩くなど技量が要求されるが、それだけに見ごたえがある。また鉦きりは摺足で円を描くように踊。なお、鉦を上方に突き上げ跳躍しながら叩く芸態は、大熊町長者原地区のじゃんがらに顕著に現れている。
唄
「ナァハァハァー、モォホホホーィ…」といった念仏に節を付け崩したとされる唄に続き、「盆でば米の飯、おつけでば茄子汁、十六ささげのよごしはどうだ…」などと唄われる。また他にも「磐城平で見せたいものは、桜つつじにじゃんがら踊り…」「閼伽井嶽から七浜見れば、出船入船大漁船…」などとも唄われる。
沖縄文化研究家 新城憲一氏によるトーク
新城憲一さんは、いわきフラオンパクでも沖縄の文化を紹介する企画展を企画した他、自身のブログでも沖縄への想いを発信し続けているいわき在住の沖縄文化研究家です。
この日も、いわきに所縁のある高僧・袋中上人が沖縄にわたり、そこで伝えたとされるじゃんがら念仏踊りが沖縄のエイサーに与えた影響など、実に興味深いエピソードを紹介してくださいました。
地元アーティスト「miwa&mura」によるアコースティックライブ
miwaさんは、透きとおるような歌声が魅力のアーティスト。
福島県いわき市生まれ。在住。さまざまな人との出会いによって今がある。
幼少期から歌うことにあこがれ、夢を抱いていた。その頃から自分には歌うことしかできないと思い込む。
ところが、時が過ぎゆくごとに自分のしていることの限界を感じ、一度夢を断念する。
その頃、ギタリスト村重光敏氏との出会いによって、
まるで、どぶんこにはまって抜け出せずにいたところを救い上げてもらったかのように、
音楽と共に、生き方、在り方、さまざまなことを感じ、吸収していく。
現在は、村重氏と共にいわき市を中心にライヴ活動を行っている。(以上、miwaブログより)
村重光敏さんはいわきを代表するギタリスト。
12歳の頃聞いたビートルズに衝撃を受け、独学でギターを始める。
17歳で上京しミュージシャンを目指すが、一度帰郷。高校を卒業と同時に再度上京。
さまざまなミュージシャンと演奏、スタジオミュージシャンとして仕事をするが、
ある人との出会いをきっかけに一度音楽活動を中断。
大工として腕を磨きながら、会津に移住した頃から音楽活動を再開する。
いわきに帰郷後は、ジャンル、人との境なく演奏を続け、ライブ、イベントなどでいわき市を中心に活動を行っている。
北茨城といわき市でギター教室も開講中。(以上、村重光敏さんホームページより)
オーガニックなアコースティックサウンドを中心にパーソナルからユニバーサルな世界観を歌うユニットです。
村重さんは曲の間に話してくれました。
「沖縄へは今回の原発事故で名護市に避難しました。そこである映画監督にお世話になりました。その監督から映画を作らないかと誘われました。これも何かの縁。沖縄と福島をつなげたいと思いました。」
村重さんの素晴らしいギターの演奏に、どこまでも伸びていくmiwaさんの透明感ある歌声が癒してくれます。
miwa&muraさんの歌を聴きたいとお思いの方!
一番近いところでは、9月4日(日)に行われる『いわき明星大学音楽祭』に出演予定です。ぜひぜひ足をお運びください。
スタッフ紹介♪
沖縄から福島県民を励ましに来てくれた沖縄スタッフの紹介が行われました。
沖縄生麺共同組合による1千食の沖縄そばの炊き出し(沖縄ホーメルから3枚肉も1千食提供されました)、沖縄物産企業連合による沖縄清涼飲料の配布などが紹介され、沖縄県花卉園芸農業協同組合からヒマワリの種が贈られました。
シンガーソングライター石原エミさん
石原エミさんが今回の福島訪問団の会長です。
1996年に「心をつなぐ永遠の会」 を発足させ、会長に就任 。同年、「 美空ひばり賛歌 」を発表。以降、沖縄平和祈念堂での平和コンサート、フランス・ベルサイユ祭出演、石原エミ平和祈念コンサート 「 美空ひばりまつり 」 開催など、平和を祈念した音楽活動を精力的に行ってきました。
今回は、福島県民に笑顔を忘れてはいけない。つらいこともあるだろうけど、元気を出してがんばりましょうと応援のメッセージを届けに来てくれました。
石原エミさんは、尊敬する『美空ひばり』についてこう話す。
美空ひばりさんは、敗戦まもない横浜で実母が私財を投げ打って設立した楽団『青空楽団』からスタートした。その後、11歳で川田晴久さんに認められ、横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。その後、数々の困難を乗り越え、国民歌手へと成長したのは、皆の知るところです。そして、歌は海を越え、アジアの歌姫になりました。
晩年は、病魔に悩まされ、入院を余儀なくされたが、1987年10月9日に行われた、新曲『みだれ髪』のレコーディング(シングルレコード発売は12月10日)より完全復帰した。いわき市の塩屋崎には記念碑が健立されているが、東日本大震災の大津波を乗り越え、今なお豊間を見守っている。
美空ひばりさんも命尽きるまで、歌うことをあきらめなかった。
福島県の皆さんも大変な日常を過ごされていると思いますが、あきらめなければきっと立ち上がれるときがきます。
信じてがんばれば奇跡は起きると力強いエールをくださいました。
沖縄のじゃんけん名人によるじゃんけん大会
景品をかけて、沖縄じゃんけん名人によるじゃんけん大会が行われました。景品は高級折りたたみ自転車でした。いや~、僕も欲しかったなぁ~。じゃんけん弱いんだよね。全然だめでした(笑
ついに喜納昌吉&チャンプルーズの登場!!
喜納昌吉氏が登場。
今日はいわきの魂と話ができればいいと思ってきました。
いわきと沖縄はともに苦しんでいます。いわきは大震災、そして、原発被害。沖縄は基地問題。
この未曽有の災害を、日本の未来に創りかえるきっかけにしていかなくてはいけない。
そう思っている。
うるまエイサーがステージに参加。会場のボルテージを高めます。
自然と観客のもとへ歩み寄るうるまエイサーの皆さん。
呼応するように、一人また一人と立ち上がり、踊りだした。
そして、いつしか会場の熱気は最高潮に達していた。
ここからムードは一転・・・喜納昌吉の名曲「花~すべての人の心に花を~」が演奏される。
今までスタンディング・オーベーションを送っていた聴衆が、その場に座り始める。
そう、「泣きなさい。 笑いなさい。 いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ。」で知られる名曲だ。私はジョン・レノンの『イマジン』と双璧をなす名曲だと思っている。
ところで、この歌は1978年秋、東京・渋谷にある東武ホテルのレストランで一気呵成に書き上げたといわれている、それも紙ナプキンにだ。 興味深いのは、あの『イマジン』もニューヨークのヒルトンホテルで、それもメモ用紙に書き留められたということ。
「本当にどこからか降りてきた気がする」と喜納がしみじみ述懐するように、名曲とは欲目や作為なく自然と生まれ出るのであろう。喜納氏は言う、「わたしはヒットさせるために曲を作ったことは一切ない。この曲も泣いて、笑って素直な心になり、人間の復権を目指そうという歌です」(2000年3月26日付「中日新聞」)。
撮影をしながら、自然とどめどもなく涙があふれた。
ライブも終盤に進み、喜納氏は静かに語り始めた。
原発は大きな問題だ。
地球上でウランは最も太陽に近い物質。もっとも神に使いものと言ってもいいだろう。
人類は、これを制御しうるものだろうか。いや、やはりまだ早いと言わざるを得ない。
人間の欲望のもとに利用しようとしても、決して制御しきれるものではない。
ともかく、反対は反対しか生まない。
祭りにしよう。
どうしたらいいか考えよう。
日本、神ノ島沖縄、友達になろう。元気になろう。
鎮魂の三線・・・。
ライブが終わると聴衆が一気にステージの喜納氏のもとに駆け寄り、握手を求めた。控えめな東北人・いわき市民が握手攻めにするって凄いことだ。
僕は思う。
被災地に暮らす僕たちは、このまま黙っていてはダメ。
メッセージを受け、パワーをもらい、感謝しているだけではダメなのだ。
この現実を打開するための方策をそれぞれが考え、声をあげ、行動していかなくては。
これからの僕たちの行動が試されているんじゃないかな。
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この日は太鼓2人だったのかな?
泉崎青年会の中に知り合いがいました。
太鼓叩いている右側の黒いヤツです(笑)
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>コウシンさん
コメントありがとうございます。2人だったように記憶していますが、撮影後すぐ記事を書けなかったので、あやふやになっております。
黒い方・・・カッコイイですね。
がんばっぺいわきのスナップもお願いしたのですが、お子様と奥様と写ってくださいました。男気のあふれる方でした。よろしくお伝えください。